ねこみみプリンセス 14 おひざは、ぬくぬくー

 今日もかわらない。金属音。兵士たちの笑い声。妙にぴりぴりした空気。

 カレニーナが帰ってきて、もう何日たつのだろう。

「ジョスリン、お前は姫と遊んでいなさい」

 父上から受けた命は、それだけだった。多分、カレニーナに作戦を聞かせたくはないのだろう。

 連日、城内は魔術師マーガライトと何かの打ち合わせをして、緊張にざわめいている。

 国内は、平和を取り戻したというのに、訓練場ではまだ、鎧が打ち合わされる音は消えない。

「わあー、おはなー、かわいいー」

 新しく作られた花壇を見て、カレニーナは嬉しそうに駆け寄った。私ははっとして、蒼い髪のゆれる後姿を見る。

「最近は強い風が吹かなくなったから。庭師を呼んで、いろいろ植物を植えてみているのよ」

「ふうんー」

 私は花ではなく、土を触った。他国から運んだばかりの土は、まだ黒く湿っている。

 長年の強風で、わが国の土はすっかり乾き、力を失ってしまった。このまま土を他国から買い集め、植物が根付けば、いつかまた、元のような森ができるだろうか。

 これまでは彫金技術、加工技術などで繋いできたが、資源は枯渇しつつある。かつてはあったという豊かな森や畑を、ジョスリンは見たことがなかった。

 傷は癒えるのだろうか。カレニーナのねこみみの傷跡のように。

「ジョーちゃんの国は、いいくにだねー」

「……え、ええ」

「でもひめのくにも、いいくにだよー。あそびにきて、カニいっぱい食べようねー」

 にっこりと笑うカレニーナ。この姫の国は、さぞかしいい国なのだろうと、その笑顔だけで思える。

「私、カニって食べたことはありませんの。どんな味?」

「ええとねー……、エビの、なんかもっとー……」

 説明に困るカレニーナ。味の説明は難しいものだ。

「いいですわ。きっと、行って食べるんだから」

 言うと、ぱああああ、とカレニーナは明るくなった。これもきっと約束、になるのだろう。さりげなく、小さくともそれは約束。

 どうして、この姫と私はなかよくなれたのだろう。そう思ったことがある。

 私の、治らないつよがりや、高慢ないい方を、兄によく叱られた。

 素直な言葉を使わないと、ジョスリンの気持ちが素直に伝わらないよ。みんなは、ジョスリンの心ではなく、言葉を聞くのだからね。そしてそれを、ジョスリンの心だと思うのだから。

 そうだ、その通りだと思った。

 でも、私の言葉は簡単には治らなかった。私にはいつも、『認めてもらっていない』という気持ちがあって、それを分からせてやりたい、という心が、高慢な言葉を生んでいるように思う。口をついてから気付いたり、分かっていても止められない時がある。

 けれどカレニーナは、言葉よりも、私の心を聞いていてくれている気がする。

 どうしてか、そんな気がした。言葉を聞いた後の態度はほとんど、私の本心にたがわなかったから。

「今はまだひ弱だけれど、もうすぐ、花冠がつくれるほど大きくなるって、庭師がいっていたわ」

「はなかんむりー?」

「そうよ。お花を茎のところで編んで、お花を冠みたいにするの」

「へええー」

 本当に知らないようだ。カレニーナは、なんとか想像しようとしている様子だった。そこに、にょよよ~ん、とじゃぱんが飛んできた。

「おい、二人とも。王とマーガライトが呼んでるぞ。ミスリンに行く作戦と、日取りが決まったそうだ」

 いよいよらしい。ジョスリンはゆっくりと膝を伸ばし、立ち上がった。状況が何もわからないのが、不安をあおる。そして自分は、……一緒にミスリンへ行くことができるのだろうか。

 そして、姫の国にいるというプラータ。昔、一度だけ優しく遊んでくれたあの少年が、カレニーナの国に酷いことをする敵だとは、ジョスリンはあまり思いたくなかった。

「ジョーちゃん?」

「は、ごめんなさいカレニーナ。行きましょう」

 疲れているのだろうか。最近すこし、もの思いに囚われることが多い気がする。

 呼ばれた部屋に入ると、大きな長机に、大人たちはペンや紙を散らばせながら、疲労を滲ませていた。知っている大人も、知らない大人もいる。

 マーガライトは、こいこい、と手を動かして、ジョスリン姫とねこみみ姫を呼んだ。

「ジョスリン姫は、弓が引けるとか」

「? ええ、普通程度になら」

「では、演出に加わってください。ええと、セリフは、これですから。はい練習」

「え、え、え?」

 魔術師は閉じられた冊子をパラパラとめくり、人差し指で文章を指し示す。本を覗き込み、カレニーナは言った。

「わあー、おしばいですねー」

「姫はお芝居を知っていますか?」

「しってますー。ままごとのしんかけいー」

「姫のセリフもありますよ。みんなで練習しましょうね」

「わあいー、はいー」

 ジョスリンは、閉じられた冊子をめくり、そして少しやるせない気持ちになった。

 なるほど、外交でも戦争でもなんでも、全てはお芝居のようなものなのだ。決められた動きを作り、せいぜい役者はいい演技をしなくてはならない。

 しかし、この脚本は、なかなかいい筋立てのように見える。

 ジョスリンは背筋を伸ばし、冊子を握り締めた。

 『公開日』までに、練習をつまなければならない。破綻すれば、誰かの死に繋がるだろう。

 所かわって。

 ねこみみ姫とねこみみ王の国、ミスリンは、相変わらず平和だった。

 ネコミミ姫、カレニーナが行方不明という噂があったが、旅に出たとか、また慰安旅行(城内の者にとって)に行ったとか等、のんきな噂ばかりで、ともかくたいした心配をする者はいなかった。

 姫の傍にカサンドラがいる限り、姫に危機は絶対に無いと思う者も多かった。

 城内での執政は、あいかわらず双子の王が行っていたし、城内の者も特に姫の姿が見えないこと以外、異変に気付く者は無かったのである。

 突如、この平和な国に他国の軍隊が迫っている、という噂も、「まっさか~」で済ませられた。なにせとりえも無い貧乏国。攻め込まれてもどうにもならない。また、噂に対して、城内での動きも、全くなかった。

 だから、本当に大国が攻めてきたときは、全員動揺はしたが、動けなかった。

 例えて言うなら、車に轢かれる前のネコに似ていた。

「信じられない」

 そんな気持ちで、ミスリンの国民は鎧装束の兵士を見ていた。

 なにせ200年間戦がなかったのである。本物の軍隊を見たことのある者すらいなかった。

 しかし何もできない。ミスリンは周りを低い山に囲まれ、逃れようにも、海はあるが船は漁に出る用の小船ばかり。

「どこの軍隊なんだ」

「わからない」

 国民はたださざめきあうだけだった。

 とても勝てるわけもない。こんな国にどうして、これほどの軍が必要なのか。

 城は沈黙を守っている。

 王たちは、どうするつもりだろう。

 何もできないからと、まさか、何もしないのではないか。

 ばかな、本当に、皆殺しになるぞ!

 国民は、神に祈った。そしてそこに、ふよふよと白い雲が飛んできたのだった!

 空中にスクリーンが広がり、映像が映し出される。珍しいものではない。魔法による水鏡である。

 しかし、ぱっと移ったものを見て、国民は動揺した。

「みんなー、カレニーナですー」

 ずこっ。

 すごく頼りになりそうもない姫の出現に、ずっこける国民たち。

 雲に乗って現れたのは、国民が愛するねこみみ姫だった。横にはおかっぱ頭の見知らぬ少女も座っている。そしてあの、小さな使役妖精も。

 しかしよく見ると、その姫にはあの。

 ねこみみがない。

 どうしたんだ。

 偽者なのか。ざわざわ。

「きいてくださいー、にいさまたちがー、わるいひとにー、つかまってしまったのー。それで、助けを呼んだのですー」

 ふりふりと、大きく手を振るネコミミ姫。しかしわけがわからない上に、ネコミミが無いことで、国民は微妙な反応になってしまった。

 じゃぱんが、姫の手からマイクを受け取る。

「こいつのネコミミは、第十二層へ助けを呼びに行くときに、取られてしまった。しかし、使役妖精である俺が保障する。こいつは本物のカレニーナだ」

 滑らかにフォローを入れるじゃぱん。練習の甲斐がありました。

「みんなー、ここはたいへんなことになりますー。いますぐひなんしてー」

 それでも惑い、動こうとしない国民の耳に、遠くから何かの音が聞こえた。

 しゃん、しゃん、しゃん……。

 六頭立ての馬車だ。馬が、空に、ひづめを鳴らして走ってきていた。それに乗っていたのは、サンタクロースではなく、蒼いネコミミの持ち主。

 若きねこみみの、国民が敬愛する国王、アレクサンダーとカレリンである。馬車は、姫から数十メートル離れたところで止まった。

「王だ!」

 まぎれもないネコミミ。双子の王はいつもの通り、威厳というより少し心配そうな顔で、ねこみみ姫を見ていた。

「あにうえー!」

「カレニーナ……、お前は何か誤解をしている。さあ、いい子だから帰ろう」

「いやー」

 ふるふると首を振るねこみみ姫。

 国民は、国王の出現とことのなりゆきに、ただ首を疲れさせながら上を向いていた。

 そこに、姫のかたわらにいたオカッパの少女が、姫の前に進み出た。

 響いたのは、朗々とした、美しい声だった。

「虚実のヴェールは時がいつか剥ぎ、真実は現れるもの。しかし時は今。私がこの鏑矢をもち、虚実をあばき、真実を取り戻しましょう」

 華奢な少女は、大きな弓に、鏑矢を二本同時にかまえ、そして撃った。

 ひゅんっ!

 素早い動作に、止める衝動すら起きず、ただ国民は、矢の軌道を目で追った。

 二人の王は、軽くマントを翻し、レジストをかけたが、その矢は、あっさりと障壁を突き抜けた。

 矢には魔法がかかっていたのだ。一瞬の驚愕ののち、王達はその矢で射抜かれた。

「!」

 国民は息をのんだが、射抜かれた瞬間、二人の王は巨大な梟に姿を変えたのだった。

 ぽさりと、ふたつの丸い死骸は、馬車に落ちた。

 二匹の梟は、それぞれあやまたず、矢が左目につきささり死んでいた。

「このあにうえは、にせものー!」

 姫の言葉に、国民は集中した。

「みんなおちついてー、青い旗のほうににげてー」

「ここは戦場になります、わたしたちは、みなさんを助けに来たのです。青い旗へ向かってください!」

 二人の少女の声に、まだ国民は動きを決めかねていたが、最後の一言に、国民の心はうごいた。

「おねがいー、ひめを、しんじてー!」

 ざわり。

 国民の心に、おなじ感情が共有されたのだと思う。理由などなく、ただ気がつけば、皆はこの、愛らしいねこみみ姫を信じていたのだ。

 国民は、まとめておいた荷物をかかえ、軍隊の間に翻る青い旗へと列をなした。

 避難班の兵士達は、国民を誘導し、班をつくらせて導いた。

「こちらへ、あわてないでください」

 マチルダは、誘導を手伝いながら思っていた。あの勇敢な姫のことを。

 出会ったときは、とてもあのコが姫だとは思えなかったけれど、あのコはちゃんと、この国のお姫様だったのね。

 全てがすんだら、謝って、そして頑張ったねって髪をなでてあげたい。そんな機会があればだけれど。

 わああああっ、と悲鳴があがった。遠くから聞こえる叫び声は、予想の範囲内だったものの、マチルダは身をこわばらせた。

「城からゴーレムと、カ、カサンドラが現れたと!」

 赤いマントと黒い翼を持つ女。それを怖れぬ者など、この層には誰もいなかった。

 この国の守り神であるカサンドラが、姫の連れてきた軍と闘うというのか。

 国民は確信した。よくわからないが、この国は確実に何かが起きているということは間違いないと。

 トン。

「時間です」

 緑の髪の女に肩をつかまれ、マチルダは一つ頷くと魔法転移させられた。

 肌に触れる、不思議な、静謐で陰惨な空気。

 そこは見たことも無い、青い結晶の小部屋だった。天井も壁も赤黒く血に染められ、二人の青年が結晶の中で苦悶の表情を浮かべて、眠っている。

「お願いしますよ」

 しゅるり、とマチルダの懐から、一匹のネコが躍り出た。現実の存在ではなく、幻影だ、というが、何者なのだろうか。

「目をつぶって」

 わ、ネコ喋った、とマチルダが思うと、あたりは強すぎる光に包まれた。

「全軍、構えッ!」

 その声に纏うものは、強すぎる意志。

「城内へと続く道を、切り開け」

 そこに添えられる、いつもと変わらない口調。強い国王と、冷静な皇太子。兵の士気は、他国の戦争とは思えぬほど上がっていた。

 この国の兵士達の中でも、ねこみみ姫の人気があったのも士気に影響している。

 後方から魔術師達が攻撃を仕掛け、前衛は国王の指揮する重騎士隊。

 目の前から迫るゴーレム。石だけでできたその人形は腕を振るうだけで人の身体を砕く。

 魔力で防御力を低めた後に攻撃しなければ、剣が砕かれるだろう。

「ギャアアアアー!」

 叫びと騒ぎに、右翼を見ると、そこは遠くからでも血しぶきが見えた。声を上げたのは斬られた者ではなく、それを見た者の叫びだ。

 カサンドラたった一人の手で、幾百の兵士たちが血に倒れ伏していた。

 その細い剣は、一泡の血も付いていない。周りには立つ者はおらず、その全ては血を吹き出しているというのに。

 カサンドラの表情は胸を打つほどに空虚で、吸い込まれそうなほどに乾いていた。

 ひ め。

 その唇が、ほんのわずか動いたとき、海風がふいた。

 それは人の血をはらみ、カサンドラを、僅かに赤く濡らした。

 マチルダの瞼から、輝きが少しずつ消えていった。

 目を開けると、そこにはもうネコはおらず、ただ倒れ伏す二人の青年の心臓の上に、右手と左手をそれぞれふれたまま、マーガライトが座っていた。

 2分でいい。

 時間を稼いでくれと魔術師は言った。

 魔法使いの一番の弱点は、術中は無力化することだ。どんな術者であろうとも、この状態では確実に死ぬ。

 バキッ!

 両耳のイヤリングが弾けとんだ。結界が破られたのだ。敵は近づいている。

 緊張を張り巡らし、マチルダは集中する。自分の呼吸は、どんどん深く、静かになっていく。なあに、私の命までかければ、二分くらいはもたせる事ができるだろう。

 命を落とせば、大金があの子達に振り込まれると約束してくれた。私がこれから一生をかけて、稼ぐくらいの金額。国王は信用できないが、ギルドは信用できる。しきたりを破れば、多くの傭兵が蜂起するだろうから。

 ビシッ!

 手首の腕輪の宝石が、砕けた。破片が皮膚を、軽く傷つける。

 緑の魔術師は深く術に入っていて、驚いたことに、呼吸ひとつしていない。

 マチルダは不思議に思う。この魔術師は、何のために戦っているのだろう?

 自分にはある。守りたいものが。

 バキビキッ、という音と共に、足音が聞こえた。

「自分の足で歩かなければならないということは、重いものだ」

 男の声だ。雨に濡れるのを厭うような、軽い不快感を感じた。

 コツン……。

 コツン……。

 扉は、音もなく開いた。

 雲の上で待つ、カレニーナとジョスリンとじゃぱん。

 しゅるん、と現れたのは、ネコ王、アレキサンダーだった。打ち合わせ通りだった。

「さあ、ここでの時間は二十分だ!」

「はいー! にゃふーん、ぜんそくぜんしんー!」

 四人を乗せた雲は、まっすぐに赤い場所へ向かう。カサンドラの、瞬殺射程距離に入らない場所で、カレニーナ姫は、大きな声で叫んだ。すぅー。

「カー、さー、んー!」

 赤い血の向こう。

 黒い羽の向こう。

 流れる髪の向こうから、カサンドラは振り返った。

 虚ろな瞳で。

 ぼうっと。

 思い出せないことを、思い出そうとしていた。

 いとしい姫のこと。

 傍にいるのに、どうしても感じる寂しさ。それは時折、涙が流れるほど。

 姫は。

 まえほど、わたしを必要としてくれない。

 こんなに殺したのに。殺してるのに。これからも殺すのに。

「カー、さー、んー」

 でもいま、姫は、わたしを呼んだ。

 黒い翼をかきあつめよう。それをかき抱いて、空を飛ぶ。

 姫はあの、白い雲の上に、いるのだ。

「カーさん」

 そこにいる、少女を見たとたん。

 ほわ、と頭に薄絹をかけられたような、おかしな感じがした。

 そこにいた娘は、青い髪。おかっぱの少女と、じゃぱんと、青いネコとともに、雲に乗っている。

 娘には、ねこみみがない。

 ……おかしい?

 さっきは姫だと思ったのに。違う?

 でも、私の姫はどこにいるのだろう。最近、ずっと姿を見ていない。

 最近は昔とは違い、傍にいると、隠し切れないうっとうしさが滲むようになった。それは私の心を死にたいほどに苛んだ。わたしの姫。

 これは誰だろう? 昔頼まれた、ねこみみを持った姫?

 それでもないのだろうか? どうしてかあたまが全然動かなくて、からまわるばかりだ。

「カーさん、ひめは、カーさんがすきー」

 その少女の言葉に。

 鞭で打たれたような、衝撃を受けた。昔の夢のように。

 あたまが痺れて、ふらつく。

 やめて。

 あなたは姫では無いのに。

 わたしが一番姫に言ってほしい言葉を、いわないで。

 そして湧いた衝動は、殺意だった。

 カサンドラは、その剣をにぎりしめ、少女に向かって、天高くふりあげた。

 そこにネコが近づき、喋りだすのを、カサンドラは何故か、不思議とは思わなかった。

「哀れな戦士よ。お前に、我が原初のエレメンタルの力をもって、術から解放しよう。力をもってか、死をもってか、それに打ち勝ったとき、呪縛は解けるだろう。しかしそれは、辛いことになる。だがお前が愛する姫が、そばにいてくれるだろう。私のエレメンタルは……」

 ひたり、と羽にまとわれた胸に、ネコは触れた。

「『恐怖』」

 触れたところから、青色の結晶が、みるまにカサンドラの身体を覆った。

 バキバキバキバキ!

 カサンドラは、抵抗できなかった。

 人が人である限り、恐怖からもまた、逃れられない。しかもカサンドラをこれまで動かしてきたものもまた。

 恐怖だったのだ。

 溺れ。

 わななき。

 血の気がうせる。

 心臓は冷たく凍り、身体は硬く硬直する。

 怖い、

 怖い怖い怖い……!

 カサンドラの心も、身体も、魂すらも、恐怖という結晶に覆われた。

「カーさん……」

 その姫の声と共に、黒い髪の剣士は、完全に封印された。

 水鏡で見ていた兵士達は、時を止めたように、その姿に見入っていた。

「……かかれ」

 皇太子の掛け声が聞こえた。

 その声に、我をとりもどした兵士達は、細切れになった仲間達と、血の川を踏み越えて城に攻め入った。

 鉄となまぐさい匂い、人肉を踏みしめる感触に苦しみながら。

 存在というのは、姿だけのものではないのだが、姿を表せばそれは、相手に強い影響力を持つ。

 それは例えば死神のように。意識した存在だけではなく、その形を目にすれば、身が動かなくなるほどの恐怖になる。

 額のサークレットは砕けた。

 もう、マチルダの守りは、あとたった一つしかない。

 黒衣の男は、もう扉を開き、目の前にいた。

 表情は見えず、肌の色すらわからない。ローブの影が、そのまま闇を引き寄せているかのように、暗い。

「マーガライト……。貴女はまだ、そうやって生きている。不思議なくらいに」

 扉を開けて入ってきた、黒いローブの男。『ジェオート』という名のその男。マチルダは、その見えぬ顔に、目を凝らし睨みつける。

 恐怖に負けないように。ここは、通さない。その意志を伝えるために。

 それに応えるように、男はマチルダのほうを向いた。

「君のことは、覚えている。燃えさかる花のようなその手は、愛を抱き、金を求め、命を吸い続けている。人が人である以上、心に隙のない者などありはしない。だから誰も私に立ち向かえない。貴女は『子供』」

 ビシッ!

 ネックレスの一つが、弾けとんだ。使えるものは、もうこの身体しかなくなった。

 マチルダは、心を強く凝らす。負ければ、私はこの剣をマーガライトに振り下ろすだろう。そうすれば、マチルダにも子供にも未来は無かった。それだけは断じてできない。

「……なるほど、これも予想の範囲内ということか。まあいいでしょう。私は貴女を殺すために来たのではないですから。そして、貴女のやっていることを、止めに来たのでもない」

 ジェオートは、マーガライトに向かっていいつのる。聞こえていない筈のその、眠っているような無垢な表情に。マチルダのことなど、もうかまってもいないようだった。

「私にはわからない。この退屈な、孤独な、永劫の時。君が何故、そのように安定して暮らすことができるのか」

 おおお。

 洞窟のどこかで、何かが泣いているような響きがした。

「君が誰も寄せ付けないのを、責めることはしない。それは私も同じだから。しかし君はまともに見えて、私は自分がまともじゃなく思える。君は誰ともつきあえても、私はもう、誰とも一緒にはいられない」

 すう。

 マーガライトは、目を、静かに開けた。

 そしてすぐに、ローブの男の、暗い顔に視線を向ける。

 魔法戦闘になる! そう思い、マチルダは体制を整えた!

 しかし、男がとった反応は、思いもかけないものだった。

 瞬時に顔に朱と熱がさすのが、はっきりと感じられた。

 そして、ひどく恥ずかしがるように顔を隠し、それからあわてて、去っていってしまったのだ。

 足音さえもなく。

 男が遠ざかり、消えうせる気配がした。

 マチルダは、さっぱりわけがわからず、呆然と立ち尽くす。

 そのとき、地面に近い場所から、うめき声が聞こえた。

「うう……」

「しっかりしなさい。だらしのない」

 マーガライトは去っていった男を気にもかけず、二人の血まみれ王に無茶な声のかけかたをしていた。

 王たちは、うめき声を上げ、身を起こした。

「逃げ……、カレニーナ……、む? マーガライト……?」

 状況がつかめていない王たちに、魔術師は言った。

「カレニーナ姫が私のところへきて、あなたたちを助けるように頼んだのです。姫は魔法を身につけ、他国の軍を動かし、あなたたちを救ったのですよ」

 そして。

 普段はうかつなことなど言わない二人は、口をそろえて言った。

「……嘘だろう?」

 軍は、ゴーレムの群れを徐々に押しのけ、城までたどり着こうとしていた。

「続け!」

「王、城のバルコニーに、誰かが立っています!」

 誰かの声に、王が目を向けると、そこには、見覚えのない男が立っていた。

 しかし、ようやく思い出す。それは息子、プラータだった。

 風になびく髪。隣の町まで旅に出る、というような軽装で、城の外を一人で眺めている。

 かなりの遠距離にもかかわらず、プラータは父親を見つけた。確実に、目が合ったのを感じた。

「(プラータ、親不孝者め)」

 頭に浮かんだのは、その一言だけだった。ただ、いまいましいだけの息子。

 そこに、念話だろう。忘れかけた、息子の声が聞こえてきた。

「(あなたは、何故、人の弱さを許すことができないのですか?)」

 向けられたのが、憎しみならば、怒らなかった。だがそこに感じ取れたのは、哀れみだった。

 自分が哀れまれるなど、この王には耐えられることではなかった。

 彷彿とする怒りに、睨みつけようとプラータを探すと、もうそこには誰もいなかった。

「(プラータめ……。自分のことを言っているのか、母親のことを言っているのか)」

 ばかめ。

 王はそれしか思わなかった。

 力が無い者は、何を言う権利も無いのだ。弱い者の言葉など、誰も聞く耳をもたぬ。

 負けたものも、ただ殺されるだけだ。

 そうなりたくなければ、強くなればいいのだ。何かを主張したいなら、誰も何もいえぬほど、強くなればいい。

「……父上、右翼の一部に穴を空けたようです。突撃しますか?」

 気付かなかった振りをして、長男は尋ねてくる。さきほど、同じ方向を向いていたことを、王は知っていた。

「急げ! しかし、城は燃やすなよ!」

 伝令は飛んでいく。王はもう、プラータのことなどどうでもよかった。生きようと死のうと、好きにするがいい。

 結局はそうして誰もが、死んでいくのだ。

 その身は血に汚れているが、王たちは治癒魔法でかなり回復してきたように見えた。

「王。動けるならば、すぐに逃げましょう。ここの結界はまた、塞がなくてはなりません」

「わかった」

 即座に二人の王は、シンクロして答える。

 事態はわからないものの、今はマーガライトに従ったほうが懸命であり、それで少なくとも足手まといにならないだろう。

 王達はすぐにマーガライトとマチルダに従い、結晶の消えた洞窟を歩き出した。結晶が無ければ、それは石灰質のでこぼことしたただの洞窟だった。

 角を曲がると、先頭のマーガライトは足を止めた。

「……」

 他の三人も、歩みを止め、その先を見つめる。

 そこには、プラータが、おどろくほど暗い表情で立っていた。

 右手に、青いネコを抱いて。

「……やめなさい。プラータ、ですね」

 静かに魔術師が言う。青いネコ、アレキサンダーは身動きひとつしない。エイリアスの実体力の弱さを狙われ、動きを止められてしまっている。なるほど、マーガライトがみたところ、かなりの実力に思えた。

 にらみあいになった。

 時間だけが動くのを感じる。

 早く再封印しなければ、異界から『何か』が抜け出して、危機が訪れるかもしれないというのに。

「僕の望みを聞いてくれませんか。緑の魔術師、マーガライト」

「……あなたの望みはわかっています。わかりました。十五層には別に封印の扉を作り、鍵をさしあげましょう。それで全ては、終わるのでしょう?」

「はい」

 プラータがアレキサンダーをひとなですると、ネコは驚いたように身じろぎし、はね起きた。

「むっ!」

「! アレキサンダー、急いで!」

 キイイイイイイイイイ!

 突然、洞窟全体が共鳴した。

 ぞわわ、と五人の体全体を、何かが吹き荒れていく感触。

「しまった、異界から、何かが飛び出した!」

「早く追わなくては!」

「私は再結界を開始する!」

「マチルダさん、王たち二人を外に!」

「はい!」

 マチルダは、王達の身体を支えて走りながら、出発前にマーガライトが言った言葉を思い出していた。

 いくら二人の王を助けだしたとしても。

 十三層が滅亡してしまってはなんにもならないのです、と。

 わああああああああああっ!

 そのころ、カサンドラは、体中をめぐる恐怖と戦っていた。

 全ての体と、精神に巣食う恐怖。それはエレメンタルの結晶となって倍化され、身体を覆い、カサンドラを拘束していた。

 恐怖のエレメンタルが、最も襲ったのは。

 死。

 カサンドラが何よりも怖れていたのは、死だった。

 死自体が怖いわけではない。何もかもがなくなるのなら、いっそすがすがしい。

 彼女が怖れたのは、その後のことだ。

 積み重なる体。それは崩れ、異臭を放ち、蛆がわく。

 誰にも顧みられることはなく、ただ塵芥として打ち捨てられる。

 ずっと幼い頃からカサンドラは、自分は、ああなるのは嫌だと思っていた。

 絶対にいやだ。

 だから、死にたくなかった。

 強いものも弱いものも、優しいものも惨いものもみんな、死は平等に訪れる。

 死というそれは、強大な力。

 だからカサンドラは、誰よりも何よりも、死という力に打ち勝つほど、強くなりたかったのだ。

 死ぬのはいや!

 醜い!

 捨てられる!

 嫌われる!

 怖い、怖い、怖い!

 身体と頭を直接打ちのめす、純粋な恐怖。

 小さい頃怖れた、全ての原動力となった魂。

「カーさん、がんばってー」

 怖い!

「カーさん、がんばってー」

 やめて!

 何故俺を殺すんだ。幾度もそう問われた。

 憎しみなどない。

 思想もない。

 本当は、戦場だからじゃない。

 敵だからじゃない。

 ただあなたが剣を持っているから。自分が殺されるのが怖かっただけだった。

 やめて。私は怖いだけなの。怖いだけ。怖かっただけだった! いつしかそれも忘れるほど強くなって、ただ立ち尽くしていた。だけど思い出してしまった。こわい、怖い!

「なにがこわいのー」

「捨てられるのが怖い……」

「ひめはすてないからー」

「放っておかれるのが怖い!」

「ひめがだいじにするからー」

「忘れられてしまうのが怖い……」

「ひめが、ときどきおもいだすからー」

「嘘だ! 嘘、嘘、信じはしない! 死ぬのは怖い! 誰も私を葬ってくれない……」

 ほた。

 ぽた。

 あわれなほど無力に零れ落ちる涙だった。

 カサンドラには家族がいなかった。仲間の兵士はいくら信頼があっても、仲良しでも、戦場のさなか私の死体を埋めてはくれないだろう。

 だから自分は、死んだら野ざらしで、腐り落ちるままになってしまうのだ。それが怖い。だから死ぬのがこわい。

「だいじょぶー。みつけだして、おはかに埋めてあげるー。おはなをかざってあげるー。だから、こわがらないでカーさんー」

 埋めてもらえる?

 お花を飾ってもらえる?

 嬉しかった。

 それは、二百年以上の間、どんなに望んでも、もらえなかった言葉。

「ほんとう……? うそじゃない?」

「だいじょうぶー。カーさんは、ひめの、ふたりめのおかあさんだからー」

「おかあさん……?」

「そう、カーさんは、かあさんなのー」

 カサンドラは、目を覚ました。

「カーさん、おきたー」

 大事な姫の顔が、ある。カサンドラは、姫の膝にのせられて、ずっと見つめられていたのだ。

 なんだ、いっそ死ねたらよかった。姫の膝の上で死ねたら、それはなんと幸せなことだろう。

「姫……、ねこみみを、なくされたのですか……?」

 空はまぶしく、ぱちぱちと煌く。夢の中の風景のように、カサンドラはたずねる。

「うんー。へんかなー?」

「いいえ、姫のお可愛らしさは、その程度では全く損なわれませんとも。むしろこれで可愛い帽子もかむれますし、花冠もかむれます……」

 そういうと、姫はにっこり笑った。

「きゃーっ!」

 少女の悲鳴があがった。

「カレニーナ、あ、あれっ……」

 それは白き三枚の翼を持ち。

 獅子、馬、鳥、犬、四つの獣の顔を持つ。

 巨大な鳥だった。

 とがった爪からは、

 なんかレーザーみたいなものが出て。

 ピーッ、と言ったかと思うと、地面がマンガのように割れた。

 兵士は割れるように叫びだした。見たことも無い異形の生き物は、あたりの者に、闇雲な恐怖と、死を与えた。ぴー。ずががががーん。

「きゃあああー!」

「た、たいへんなことにー!」

 雲の上で、下の地獄絵図を見下ろしあわてる姫たちに、カサンドラは優しく微笑み、立ち上がった。

「ご安心を、姫。私があのような妙な鳥は、速攻、コンガリ焼鳥にして差し上げましょう」

「ええええー!?」

 声を揃える姫ふたり。

 ばさあ! とカサンドラは黒い翼を広げる。それはいつか空でみたものとは、数十倍は広かった。

 しかし、変な鳥はあまりにも大きい。

「じゃ、じゃぱんー」

「いや……、大丈夫だろう」

 じゃぱんは、顔色を悪くして軽くカタカタ震えていた。それは明らかに、カサンドラに対して。

 恐ろしいことに、カサンドラは普通人類では排除しきれない、『恐怖』の感情を克服してしまったのだ。

 それにつれて、レベルも人外に上がっている。もう何者にも止められない。

 おおおー!

 兵士達から声があがった。

 見るとカサンドラは六人ほどに突然分身した。

 ピキイン!

 そして六方向から、同時に居合いを抜き放つと、変な鳥は動きを止め、そしていくつかの肉片となって落ちた。

 その体液は、地面を溶かした。

 落ちた肉は、建物を砕いた。

 そこから茶色い気体がたちのぼり、妙な匂いが、あたりに広がっていった。

 それを、城の門から見ていたマーガライトとアレキサンダーは。

「いやー、やっぱり世界の安定化は進んでるんですねえ。あんなちっちゃいのしか出てこないなんて」

「ああ。この程度なら、層の扉ごとに封印を施すことで十分かもしれないな。勿論、しばらく調べてからだが」

「ですねえ」

 などと、のんびりトークを交わしていたのだった。

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